鳥羽伏見の戦い « Topics

鳥羽伏見の戦い

数において、政府軍約5000に対し、約15000を確保してい幕府軍が脆くも敗れたのは、この戦いでは数が全く意味を持たなかったからである。

慶応三年(1867)12月の末に、西郷吉之助の意を受けた御用党の乱妨に、幕府側はひっかかった。年をあけた1月1日、大坂城に集結していた幕府軍は、突如「討薩の表」をかかげて京に向かった。慶喜はこの時風邪をひいていたが、
「とめてもとまらないので、うっちゃらかしておいた・・・」
と後日語っている。幕府軍入京の報に、新政府軍はすぐ邀撃態勢をとった。薩摩藩は東寺に本陣をおいて鳥羽口を固める。

長州藩は東福寺に陣し、伏見口に備えた。さらに、専教寺、中原寺にも兵を派して、毛利橋を守る。

尖兵は、薩摩藩は桃山まで進出し、桐野利秋が指揮をとる。

島津式部、吉井幸輔らの隊は5000人の兵で、御香宮を占拠していた。御香宮は、いまではそうでもないが、当時は崖の上にあり、崖下が伏見奉行所だった(現在、奉行所跡は住宅団地になっていて、崖を偲ばせる段差もそれほどない)。

1月2日、幕府軍の先鋒になった会津藩軍が、新撰組と合流して、伏見の長州軍隊長林半七に、
「慶喜公の参内をゆるされたい」
という交渉を始めた。林は市之や蚊取素彦と相談し、西郷吉之助の指示を仰いだ。西郷は
「たしかに朝廷は慶喜の参内を停めてはいない」
と大久保一藏と協議した。この日はしたがって、この交渉で終わった。

が、翌日3日、鳥羽街道で、討藩の表をかかげて進軍してきた幕府大目付滝川具挙の軍が、伊地知正治の薩摩軍と衝突した。薩摩軍は砲撃した。これが戦端をひらくきっかけになった。

慶喜参内の交渉で御所にいた西郷は、この砲声をきいて、
「やったぞ」
と会心の笑みを洩らした。風見鶏の公家たちが、慶喜参内を認めようとグラつきはじめていたからである。伏見口でも鳥羽街道の砲声をきいて、会津藩の槍隊は強い。新撰組も刀槍の技術には長けている。白兵戦には分があった。政府軍は突かれ、斬られて、かなり後退した。

この時、御香宮の薩軍が一斉に崖下の伏見奉行所を砲撃した。一弾が火薬庫に命中した。大爆発が起こり、ここを本陣にしていた新撰組は大混乱を起こした。これをみて、一旦は退いた新政府軍も、しきりにスペンサー銃を射ちながら押し返してくる。ほかの戦線でも幕軍は総崩れだ。このままだと新撰組は適中に遺棄される。とみた土方歳三は、血刀をふるって、
「退け!中書島に退け!」
と退却を命じた。撤退のさせ方が水際立っていて、混乱の中の隊士をよく収拾した。しかし、この戦いで新撰組は井上源三郎、山崎蒸、和田十郎、三品一郎、宮川数馬、鈴木直人、伊藤鉄五郎、池田小太郎、小林峰三郎、林小三郎、今井祐三郎、水口市松、青柳牧大夫等、キャリアのある隊士を多数死傷させた。井上は近藤、土方、沖田たちと同じ多摩の出身で、八王子千人隊士の息子であり、温和な人柄は、いつも隊士から「源さん」と呼ばれて親しまれていた。
「この上は、大坂城で決戦だ」
口々に合言葉のように叫びながら、幕兵は淀川堤を走った。新撰組もそのつもりでいた。

が、三日、四日、五日、六日と、退いては陣を張り、陣を破られてはまた退く、という戦いをくりかえしながら、七日、ようやく大坂城に着くと、意外な事実が待っていた。

総大将の慶喜がすでに脱走してしまっていたのである。酒井、板倉の両老中、それに会津、桑名の二藩主を連れて昨夜のうちに、沖合にいる幕鑑開陽に乗り移ってしまったという。総大将の敵前逃亡だった。
「一体、どういう了簡ですか」
慶喜だけならともかく、あれほど新撰組を庇い、苦楽を共にしていた守護職の会津藩主まで逃げ出すとは、と無念の思いをこめて土方は近藤にきいた。白布で腕を吊った近藤は、
「おれにもわからねえ」
と渋い表情でいった。

事後処理に当たったのは、老中の松平豊前守(のちの大河内正質)と若年寄になった永井尚志である。二人は、
「慶喜公が江戸へ立たれた以上、大坂城を守っても意味がない」
と判断し、城内の佐幕諸軍に、
「軍は解散する。諸藩兵はそれぞれ藩地に帰られたい。幕臣の士は、海路あるいは陸路で江戸へ戻るように」
と触れた。

「江戸で決戦ですかな」つぶやく土方に、近藤は、「さあ、どうかな」と気のない応じ方をした。全体状況のせいだろうか、それとも肩を射たれたせいだろうか、土方は、近藤の戦意が頓に減退しているのを感じた。脇から沖田総司が、痩せ細った青黒い顔の底から心配そうに眼を光らせていた。

「戦さに負けた上、江戸まで歩くのは骨だ」
土方はとび出した。海軍副総裁の榎本釜次郎に交渉して、新撰組全員を幕鑑富士山に乗せてもらうことにした。隊士は約50人いた。1月12日、鑑は出航した。同じ日、慶喜は江戸に着いていた。15日、新撰組は品川に上陸した。釜屋という宿に泊った。金銭出納帳によれば、このとき、約800両の金が支出されている。「派手」にやれ、ということだったのかも知れない。

近藤はこの慰労の遊興には加わらず、沖田と共に神田和泉橋の医学所に行った。加療のためである。佐倉藩の江戸留守居役依田学海が見舞いにやってきた。、たまたま土方も見舞いに来ていた。依田が、
「伏見の戦いはどうでした?」
と聞くと、近藤は、
「この男にきいて下さい」
と苦笑した。土方は、
「もう刀や槍の時代ではありませんな。鉄砲にはとてもかないません」
と正直に答えた。久しぶりに歓楽のかぎりをつくした新撰が江戸に入ってきた時、江戸城の大評定は、「恭順」に決まっていた。この評定には近藤、土方も出席し、主戦論を唱えた。小栗上野介、榎本釜次郎、大鳥圭介たちも同じだった。が、慶喜は勝海舟の恭順論をとり、政府交渉の全権を勝に委ねた。そして一月二十二日、慶喜は江戸城を出て上野寛永寺に籠った。前将軍の未亡人和宮も、徳川家のために疾走しはじめた。主戦派の大名・幕臣は登城を停止された。

それだけではない。

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